2015年5月14日

旅は徒然。epi 5 顔の表情が面白いとたまに言われる。小学校の文集に、変顔をするな。1年4組一同というのをさっき見つけた。そんなつもりはないけど写真で自分の顔を見たら確かに面白い顔をしているなぁと最近たまに思う。というわけで名古屋編完結です。


前回。ビクトリーロード(名阪国道)を横目に脇道に入っていったワタクシ。
果たして無事に名古屋までたどり着けたのでしょうか。

名阪国道は125cc以下通行禁止と表記されていたので素直にそれに従い脇道に入った。どうやらここは国道25号線というらしい。国道だったら安心よね。これって天王寺辺りから伸びてる奴なんかな〜むしろ八尾とかまわらずに、天王寺まで一旦出てから25号線通ってきたらよかったんかいな〜もうちょっと地図を見るべきだったね〜ふんふん〜次からはそうしよ〜。

浮かれていた。

国道というものは最低2車線、時には3車線。しっかりとアスファルトで整備された走りやすい道だとこの時まで思い込んでいた。実家の近所に国道26号線なんてものも通っていてそれは交通量の比較的多い道だった。25と26。一個違いで偉い違いだった。そもそもこんな山の中で3車線も必要な訳がないじゃないか。初めての時速30km、長旅(ここまでで既に3時間は走りっぱなしだった)で私の脳みそにはかなり蛆が沸いていたらしい。

今思い返せば、自分が通っていた道程は所謂”酷道”(国道の癖に酷い状態の道を指した揶揄的な表現)ではなかったのかななんて思ったので調べてみたらやはりそうだった。

非名阪[編集]

亀山 - 天理間には、整備された名阪国道が走る一方で、これに並走する旧道も依然国道25号として存在している。この亀山 - 天理間の旧道は三重県奈良県が管理しているが、並行する名阪国道は勿論のこと周辺の県道と比べても非常に管理が貧弱である。旧一級国道では改良対象に十分なり得る急カーブや、離合困難な狭部箇所も多く残っている。特にJR関西本線と平行して走る加太付近の区間は、採石場に出入りする車両が頻繁に往来するために鋪装が剥がれており、「二桁なのにダート酷道」として有名である。この区間は、名阪国道ではない国道25号という意味で「非名阪」と呼ばれているほか、酷道であるという意味で「名阪酷道」とも呼ばれている。
この区間は1962年3月の名阪国道制定に伴い、1962年5月に国道25号に編入された。1965年12月には名阪国道が開通しているため、この区間は国道編入から僅か3年半で現道から旧道となった。
wikipediaより抜粋。

そんな訳でダートなヘアピンカーブを免許取得間もない私が、カブにコンテナつけた状態(前回写真参照の事)でさらにその上にはBAMのリュック型ケースにアルトサックスを入れた状態で走っていた。コンテナの上にBAMのリュック型ケースを載せると、普段は腰の位置くらいまで落ちているケースがコンテナの高さぶん40センチほど浮き上がる格好になる。すると自然に肩紐の部分が余る。前から見たら菩薩観音の後ろにある奴みたいな、良く言えば後光が指しているような、悪く言えば、刑務所で電気椅子に座っている死刑囚の様な格好になりながら走っていた。心情的に間違いなくこの時の自分は電気椅子に座った死刑囚であった。

そしてワタクシは極度の方向音痴だ。

高校生の頃、梅田のドルチェ楽器にソプラノサックスのマウスピースを買いに行こうとして4時間弱路頭に迷い、交番等に立ち寄り地図で道を示されるも結局辿り着かず、諦めて家に帰ったりした事。尼崎のアルカイックホールと伊丹のアイフォニックホールを間違えて、演奏会の時間に辿り着いた場所は伊丹空港だった事。中々一筋縄ではいかない人生を歩んできた。

そんな訳で案の定、国道25号線を走っていたつもりが、いつの間にかハイキングロードに入っていた。何故ハイキングロードか分かったかというと、標識にハイキングロードと書かれていたからである。方向音痴でもそれくらいは分かったが、ハイキングロードというよりは、完全に獣道だった。こうなってくるともう写真を撮っている余裕などなかった。水たまり。砂利道。急な勾配のハイキングロードを抜けた先は田んぼだった。おっちゃんがトラクターで田んぼの整備かなんかをしている横を菩薩観音の死刑囚がすり抜けていった。完全に農道だったが安心感ったらなかった。おっちゃんを抱きしめたくなるくらい人恋しかったが、まだこの時の僕は引き籠もり体質を引きずっていた。

田んぼを抜けると三重県だった。冒頭の写真はその時余りに嬉しくって写真を撮る元気が沸いた瞬間を記録している。写真を撮る元気までは出た物の目は死んでいる。

伊賀を越え四日市を越え名古屋に到着した時、日はすっかり落ちていたものの目的地だった一宮の真清田神社に到着した。

到着した。

到着した次の事をこの瞬間まで考えていなかった。なぜなら、コンテナには、ニッシーのテントと寝袋が入っていた。”これさえあったら無敵よ”と言われていた。僕には”それ”をする勇気はまだなかった。チキって近所のビジネスホテルに宿泊した。ネカフェでも探そうかと思ったが、そんな余裕はなかった。電車代より高くついた。コンテナを積んでいたがコンテナの中の物には一切手をつけなかった。電気椅子しただけだった。

GW中だったので何処も一杯だったが、たまたま空いていたええ感じに年季の入ったビジネスホテルに落ち着く。荷物をほっぽり出して、腹ぺこだったので何か食べる店はないかと付近を散策したが居酒屋しかなかった。普段一人吞みなんて滅多にしない。けれど、まぁたまには。と思った。一軒よさげな居酒屋を見つけた。生ビール、チャンジャ、親子丼を注文した。自分でもよく覚えているなぁと思う。旨かった。一人夜中の一宮を散策していた。知り合いが居るわけでも無い。知らない街。自由。束縛もない。10時間ほど運転していた。硬直した体にアルコールが入り、ほろ酔い気分で夜風に当たる。最高だった。一宮の街もほどよくレトロでええ感じだった。気分はまるで三文小説の主人公だった。引き籠もり体質は抜けきっていなかったので特に出会いはなかった。

遠出の味をしめた僕はその夏北海道へ向かう。

次回。手羽先訪ねて三千里、目指すは津軽海峡夏模様
乞うご期待。


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